傘はささないで -26 紫陽花-
数えるほどしか言葉を交わしたことのない先輩の乾いた口唇が重なったとき、私はずっと終電のことばかり考えていた。
そろそろ帰らないと、間に合わないのにな。
舌べらはブランデーの味が染み込んでいて。
なんだか気持ちが悪かった。
お酒は好きだけど。
いくら飲んでも酔ったことなんてなかったけど。
このアルコールはなんだか不味かった。
歯茎の裏まで舐めてくるのを、無理やりにやめさせて。
「私、帰ります」
そのまま、背を向けた。
「茅野ちゃん、送ってくよ」
ご冗談。あなたのお酒、ちっとも美味しくないんだもの。
にっこりと笑って丁重にお断り。
そのまま、地下鉄の駅に潜り込んだ。
なんだか気持ちが悪い。
地下鉄で揺られるのは割りと好きだったんだけど。
いつもだったらとっくに来ているはずの、程よい眠気は全く傍にいなくて。
あるのは不快感だけ。
帰ったら、すぐに吐いてしまおう。
吐けるだけ。指でも突っ込んで。
地下鉄から地上に出ると。
ざりざりと雨が降っていた。
こりゃまた運が悪い。
丁度本降りになった直後みたいで、当分は止みそうにない。
……桝村先生が今の私を見たら、何て言うんだろう。
毎日毎日お酒ばかり飲んでいて。
挙句、ちっとも好きじゃない人とキスやセックスしたり。
こんな私、見られたくない。
知られたくない。
だったら、止めればいいのに。
辞められない、馬鹿な私が居る。
時計はそろそろ午前0時。
雨はまだまだ止みそうもなかったから。
私はそのまま家へ向かって歩きはじめた。
で。違和感を感じてふと振り返る。
どうして気付かなかったんだろ。
とっくに閉店した花屋の庇の下に、植えつけられた紫陽花の花に凭れ掛かった大助が居た。
「おーい、大助」
丸く、ぷっくりとしたほっぺたを突付いても、全く起きる気配がない。
まだ小学生だっていうのに、こんな時間に出てきたりして。音羽のおじちゃん、おばちゃんはどういう教育してるんだろう。
無理やりおぶったけれど、思ったよりずっと重かった。
最近、身長が私に近づいてきてたもんなぁ。
と、大助が抱えていたらしい、オレンジのタータンチェックの折りたたみ傘が地面に落ちた。
それはどう見ても、私のもので。
「……、ひょっとして、お迎えしてくれたの、アンタ」
返事はなかったけれど。
大助を負ぶったまま腰を下ろして、傘を拾った。
「仕方ない。お姉さんが送っていきますか」
雨はあいかわらず降り続けている中。私は傘をさすこともできずに、幸せそうに眠る従兄弟と共に帰路へついた。
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